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恋の味はマリアのクッキー

短編小説
ファンタジー
オリジナル
2017年07月30日 22:57 公開
1ページ(8792文字)
完結 | しおり数 0

恋した味は、甘くてしょっぱい。

湊羽流花

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昔からある古い本屋さん。
その本を取ったのは偶然だった。
「恋する乙女・マリアのクッキー」の本に登場する少女マリア。
私は彼女の声を聞くことが出来き、恋の叶うクッキー作りの指南を受けていた。
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 私の住んでいる街にはとても古い本屋さんがある。お母さんが生まれる前よりも存在していて、お店自体は小さいながらも、一風変わった珍しい本ばかりが揃えられている。その所為か、大昔からここに通いつめるファンのような客も少なくない。
 私もその一人に入るかもしれない。
 その本と出会ったのは小学一年生の頃。
 学校の帰りに友達とこの本屋さんへ入った。本棚から適当に絵本を取って、奇妙な動物の描かれた絵を見ては友達とはしゃいで楽しんだ。
 それを取ったのは偶然だった。色鉛筆で描かれた少女とその周りを囲んでいるハートのクッキー、女の子なら目を惹かれる可愛らしい表紙をしていた。
「かわいいっ!!」
「見てみようよ!!」
 二人でわくわくしながら表紙を捲ると、ぱっと目に飛び込んできた美味しそうなクッキーの絵。
「わあー……おいしそう!!」
 バニラのディアマンクッキー、さくさくのアーモンドサブレ、ココアのアイスボックスクッキー、色鉛筆で描かれたそれらの側には、手書きの文字でその作り方が書かれていた。
 目を輝かせて見ていると、最後の一文に視線が止まる。
『クッキーに想いを込めて。あなたの恋はきっと叶う』
 私はその時、当時好きだったケンくんの顔がぱっと浮かんだ。
「ケンくんに作ってあげたら?」
 ドキリ。
 心を読まれたのかと思った。
 胸がドキドキして顔が熱くなる。
 恥ずかしくて答えられずにいると、「あっ!! 塾だから帰らないと!!」友達は思い出したように叫んで、本屋から飛び出してしまった。
 私も帰ろうとして本を棚へ戻そうとした。
――好きな子がいるの?
 ドキッ。
 どこからか聞こえてきた声。私はびっくりして固まってしまう。今度は緊張からくるドキドキで、汗が吹き出てきた。
――ねえ、好きな子がいるの?
 また聞こえてきた。
 汗がたらりと背中を伝う。
 私の正面にいるのは、店番のおばあちゃん。しわしわだけど、いつも笑っているかのような顔をしている。居眠りをしているのか、首がこくりこくりと動いていた。
 泳ぐ視線で左右を確認してみるも、周りには誰もいない。
 ごくり。
 音が鳴るくらい唾を飲み込む。
――聞こえてるんでしょ? 返事くらいしなさいよ~。
 反応を示さない私に、“それ”は不満の声を上げた。
 この時にはもう“それ”がどこから聞こえてくるのかわかっていた。
 私の緊張は最高潮に達した。
 振り返るべきなのか、このまま走り去るべきなのか。幼い私にはどう判断するのが正しいのかを考える余裕など、持ち合わせているはずもなかった。
 とはいえ、大人であっても、俄かに信じがたい現象で戸惑うに違いない。
 私はロボットのように首をガクガクと小刻みに動かす。
 本棚。直そうとして、まだ指先だけ触れている本。
 ごくり。
 恐る恐る、力を込めてくいっと引っ張った。三角形の形ではみ出たそれ、私はぎゅっと瞼を閉じて引っこ抜いた。
 ちらり。
 片目だけ開けて、手に持つ本を確認する。心なしか重たく感じるのは気のせいだろうか。
 私は片手だけ突き出して体を仰け反らせるという、変な姿勢を数秒間とっていた。
 声が聞こえない。
 私は一気に拍子抜けして、もう片方の目を開けて姿勢を正す。
 そして、持っている本を裏に返し、表へ戻すのを繰り返した。
――遅いわよ。
「だっ、だれっ!?」
 びっくりして危うく本を落としそうになった。
――やーっと反応してくれたわね。わたしは恋する乙女のマリアよ。
「えっ!? マリアって……うそっ!?」
 まさか、今話しかけているのがこの本に描かれている少女だなんて。私は口をポカンと開けて絵を見つめた。
――変な顔しないでちょうだい。同じレディとして恥ですわあ。もっと自覚を持ってくださらないと。
「ええっ?」
 本の中の少女に怒られてしまった。
「あなた……生きてるの?」
――で、好きな子がいるのよね?
 まったく会話が成り立っていない。答えないと話が進まないようだ。
「い、いるけど………?」
――じゃ、やることは一つよ。
 勝手に話を進めてくる。呆気にとられて何がなんだか。
――恋の叶うクッキーを教えてあげる。ちゃんと、わたしの指示通り作れば、必ずあなたの恋は叶うわ。
「ほ、ほんとに?」
 色々と怪しい話ではあるも、簡単に乗せられてしまうのが子供というもの。
――一寸の光陰軽んずべからず。さあ、わたしが今から教えるアイスボックスクッキーを作ってみなさいな。
「わ、わかった!!」
 私はランドセルからノートとペンを取り出した。
 マリアはまるで歌ってるかのように、材料から作り方をテンポ良く教えてくれた。
――ポイントは、バターを常温に戻しておくこと。粉はちゃんと振ること。オーブンの予熱はしっかりね。
「わかった!!」
 一言一句も聞き漏らさず、ノートにペンを走らせた。
――ここから一番大事よ。作ってる時は、必ず想いを込めること。出会えたこと、そして、「好き」という気持ちを抱かせてくれたことに感謝を込めるのよ。


 私はノートを抱えながら走って家に帰った。それだけなのに、冒険にでも向かうかのような不思議な高揚感に包まれていた。いつもと変わらぬ景色が、太陽よりもきらきらと輝いて見えたのだ。


 マリアの教えてくれたクッキーはとても美味しく出来上がった。私は鼻歌を歌いながら綺麗にラッピングをして、次の日に学校へ持っていった。
「すごーい!! ケンくんに渡すなら手伝ってあげるよ!!」
 いつも一緒にいる友達にクッキーを渡すと、嬉嬉として架け橋になることを買って出た。放課後になったら呼び出してくれるらしく、私はそわそわと落ち着かない気持ちで授業を受けた。
 ――放課後。
 人気の少ない校舎裏、私はケンくんを待っていた。
 じっと地面に穴が空きそうなほど見つめ、緊張から心臓が口から飛び出そうになる。クッキーの入った袋を持つ手に汗が滲んできて、ポケットからハンカチを取り出して何度も拭った。
「悪りい。遅くなった」
 ケンくんが走って現れた。
 私はびくりと肩を震わせ、あたふたと首や目を動かした。
「んで、話ってなに?」
 目の前にいるケンくんは至って普通の様子で、呼び出された理由を聞いてきた。
「あ、あの……えっと……」
 恥ずかしくて顔をまともに見れない。意識すると尚一層恥ずかしくなり、顔が地面に落ちてしまいそうになる。
 私は緊張から固まってしまうも、ケンくんは黙って待っててくれた。でも、このままだとケンくんは痺れを切らして去ってしまうかもしれない。
 焦る気持ちからクッキーの袋をぎゅっと握りしめる。それでも言葉が出ないものだから、パニックになって頭が真っ白になってしまう。
「これっ!!」
 私はケンくんにクッキーの袋を差し出した。言葉が出ない以上、もう渡してしまえと体が動いていた。
 ケンくんは差し出されたクッキーの袋をまじまじと見つめる。
 こういう時のために、クッキーの袋の中に手紙を入れていた。これを受け取ってもらえば手紙を読むことになるだろうから、ここで言えなくとも私の気持ちは伝わるはずだ。
 しかし、クッキーの袋が手から離れる気配はなかった。目をぎゅっと瞑って待っていたが、変に思って片目だけちらっと開ける。
 困った顔をしたケンくんとばっちり目が合ってしまった。
「オレ、甘いの苦手なんだよなあ。ポテチの方が好きだからさ……ごめん」
 ケンくんが去った後、しばらくその場から動けずにいた。

***

 私は沈んだ気持ちであの本屋に立ち寄った。
 そして、あの本が置いてある棚の前に立って頭を何度か打ち付けた。
――それは、完全にあなたのリサーチ不足ね。好きな気持ちだけでは、相手の好みは変えられないわよ。ま、これに懲りたら、次からはちゃんと相手のことを知るべきね。
 マリアに至極当然のことを言われ、私の心は海の底よりも深くまで深く沈んでいった。

 恋は実る以前に終わってしまったが、クッキーの評判はうなぎ登りとなった。クッキーをもらった友達が、あまりの美味しさからクラスの女子達に教えたのがきっかけで、みんなにクッキーを作って渡したのだ。すると、「なにこれ!! すごくおいしいっ!!」口を揃えて賞賛したのだった。
 それから、それまで話すことのなかった人と仲良くなったり、クッキー作りが自分の趣味になるなど、私の生活は賑やかなものとなった。


――バターは室温に戻してからクリーム状になるまでちゃんと混ぜるのよ? 薄力粉とココアパウダーを合わせたものは混ぜすぎると生地が固くなるから、ふんわりと混ぜるのがポイントよ。仕上げにチョコレートでコーティングしたら、手作りとは思えない濃厚ショコラクッキーの出来上がりよ。
「ありがとう!! がんばって作るよ!!」
 レシピを書き記したメモ帳を鞄にしまい、本を元の位置に戻した。そして、飛び出すように本屋から出ていった。
 この時、私は高校生になっていた。
 マリアから教わるクッキーを作り続けるうちに、その腕はめきめきと上達していった。家族や友人からの評判はすこぶる良くて、昔から付き合いの近所のおばさんはファンになってしまうほどだ。
 私もそれは嬉しくて、暇さえあれば作って色んな人にあげている。
 ただ、一つ大きな問題があった。

 買い物袋から買ってきた物を取り出して、テーブルの上に並べていく。
「材料は……全部揃ってるね。よし!! 今度こそ!!」
 髪をゴムで一つに束ね、腕まくりをして作業に取り掛かる。
 マリアから教わるクッキーは確かに美味しい。食べた人は、必ずとても幸せそうな顔をする。不思議な魔法がかけられているのかと思われるほど。しかし、恋が叶ったことは未だになかった。
 
 中学生の時、同じクラスのユウキくんが好きだった。物静かでいつも本を読んでいて、地的で涼やかな印象を受けた。密かに想いを寄せる女子は多くて、私もその一人だった。
「いいこと聞いたよ~!! ユウキくん、甘い物好きなんだって!!」
「ほ、ほんとに!?」
 友達からのその話を聞いて、私はその場で大喜びした。その日の帰りに、すぐさまマリアに報告してクッキーを教わった。
――念のため、甘さ控えめのダージリンクッキーにしときましょう。グラニュー糖と茶葉は一緒にミキサーにかけて。それでサックリ仕上がるはず。バターと卵白を混ぜる時は空気を含ませながらね。それと、感謝の気持ちを忘れずに。
 私は言われた通りに作り、中に手紙を入れてラッピングをした。

 ユウキくんは放課後、図書室で一人静かに本を読んでいる。私は念入りに調べて、二人きりになれる時間を狙って入った。
 日の差し込む窓際の席で、頬杖をついて読む姿はとても絵になっている。一歩一歩近くたびに、胸のドキドキが早まっていった。
「あ、あの……」
 美しい顔を目の前にして、私はかあっと頬を赤らめる。彼は本から顔を上げて、少し驚いた顔をして私を見つめた。
「君は……同じクラスの……」
 真っ直ぐ見つめられ、顔から湯気が出そうになる。私は声が出せなくなり、振り子のように何度も縦に振った。
「なにか……用かな?」
 頭の中で何度も練習したのにも関わらず、一言も発することが出来ない。私がおろおろしていると、ユウキくんは不思議そうに首を傾げた。
 ああっ、やっぱダメ!!
 私は目をぎゅっと瞑って腕を突き出す。
「はいっ!!」
 ユウキくんの雰囲気に合わせてブルーの包みにした。
「えっと……これは?」
 顔面に差し出されたのにも関わらず、とても落ち着いた対応は彼らしい。
 それは私の冷静さを取り戻すのに十分だった。
「あ……えっと……いきなりごめんね。これ……クッキー作ったの」
「クッキー……」
 包みの中身がクッキーであることを告げると、ユウキくんの顔はみるみる青くなっていく。
「あ、あの……どうしたの?」
 ユウキくんの異変を感じて、顔を覗き込みこもうとした。
 ガタッ。
 ユウキくんは怯えるように体を後ろへ引いた。そして、手で口元を押さえて激しく首を横に振った。
「だ、大丈夫!?」
 あまりの反応に驚いて近寄ってしまう。ユウキくんは、間近に迫ったクッキーの袋を見て目を見開いた。
「うっ……むりっ……うえええっ」
「えっ……きゃあああっ!!」
 その後、ユウキくんと話をすることは一切なかった。

――まさか、クッキーが地雷だったとはねえ。確かに、犬の毛だらけのクッキーなんて貰ったらトラウマにもなるでしょうね……。ま、今回はお互い不運だったということね。
 私はやるせない気持ちをぶつけるべく、本棚に向かって頭を何度も打ち付けた。

 思い出すと、今でも心が泥の塊となって沈んでいくのだ。
「でも、今回は大丈夫!!」
 隣のクラスにいるシンヤくんは、甘いお菓子が大好きなことで有名だった。シンヤくんのお母さんはお菓子作りが得意らしく、自宅にたくさんの人を招き入れてはその腕を披露するほどらしい。その影響もあってか、シンヤくんは甘いお菓子が大好きのようだ。
 明るくい性格で男女から人気のあるシンヤくんは、日ごろから手作りのクッキーやらケーキを貰っているようだった。私もその光景を一、二度見たことがあり、シンヤくんはとても大喜びしていた。
――それはそれは、幸先の良い話じゃないの。クッキーを食べたら想いは伝わったも同然なのだから。あとは、あなたがしっかり心を込めて作ることね。
 オーブンの窓から見えるクッキーたち。込められた想いの分だけ膨らむその姿に、私はにっこりと微笑んだ。


 今日はシンヤくんが日直だった。隣のクラスで仲のいい子からその事を聞いていたので、課題のプリントを職員室に運んでいるところを狙って会いに行った。
「シンヤくん、ちょっといいかな?」
「ん? なんだい?」
 二人っきりで話をするのは今回が初めてだった。とても緊張するが、時間がないのと人の目もあるので手短に済ませる。
「これ、作ったんだ。うまく出来たから食べて欲しくて……」
 明るい向日葵の色をした袋を照れながら差し出す。
 シンヤくんはきょとんとした顔をして袋を見つめた。
「これ、お菓子?」
 シンヤくんが人差し指をさして訊いた。「そうだよ」私が短くそう答えると、「そうなんだ~……うーん……」シンヤくんは困ったように笑って頭を掻いた。
 嫌な予感がした。これまでを思い出し、背中から不快な緊張が走る。
 自分でも笑みが引き攣っているのがわかる。この先を聞きたくないのに、小さな虫の羽音が聞き取れるくらい聴覚が研ぎ澄まされる。
「ごめん、受け取れない。『女の子からお菓子を貰うなんてダメッ!!』って、ママが大泣きして言うもんだからさ……。つーわけで、ママを悲しませる訳にはいかないから。悪いね」


――それって、マザコン?
 本棚へ何度も何度も頭を打ち付けて、やり場のない感情をぶつけた。


 季節は巡って、私は受験を迎える時期となった。本格的に菓子作りの世界へ進むべく、専門学校へ通うことを決めていた。きっかけはなんであれ、私はクッキーを作ることに生き甲斐のようなものを感じていた。
「マリアはどうしてクッキーを作るようになったの?」
――急にどうしたのよ?
「へへ。なんだか知りたくて」
――ふーん……まあいいわ。昔、丘の上にきれいなお姉さんが住んでいたの。わたしの周りにいる野暮ったい大人とは違って、気品のある洗練された女性だった。わたしは憧れと好奇心から、その女性の家へしょっちゅう遊びに行ってたわ。いつも笑顔で出迎えてくれて、果実や花の香りをまとった紅茶と手作りの美味しいクッキーを出してくれたの。それを食べると、わたしのココロは幸せな気持ちでいっぱいになったわ。
「じゃ、その女性と一緒に作るようになったとか?」
――いいえ、その女性の真似事をするようにクッキーを作り始めたの。初めのうちは、ほんとうに悲惨だったわ。歯がぐらつくほど固かったり、湿ってやわやわだったり……うまく出来なくて泣いたこともあったわね。
 私は自然と想像していた。粉まみれの小さなで、不器用ながらも一生懸命に作る姿を。
――失敗ばかりだったけど、絶対に諦めなかった。おいしいクッキーを作って、お姉さんに食べてもらうって決めていたから。毎日毎日、何度も失敗して……まずいクッキーを食べすぎてお腹も壊したわ。でも、一ヶ月後には満足のいくクッキーが出来たの。わたしはすぐにお姉さんのところへ行ったわ。きっと、あのやさしい笑顔を見せてくれるって思ってた。でも……
 そこから沈黙が流れた。私はただ静かに呼吸をしてその続きを待った。
 しばらくして、少し震えのある声が聞こえた。
――お姉さんはいなかった……。わたしが来る二日前に、この世から去ってしまっていたの……。後から聞いた話だと、お姉さんは病を患ってたらしく、静養のために丘の上へ引っ越してきたそうなの。越してきてからは症状が和らいで、普通に日常生活を送れていたそうよ。でも……急に病が悪化してしまったらしく……そのまま旅立ってしまった……。
 その時、沈みゆく太陽の光りが差し込んで真っ白にぼやけた向こう側、静かに微笑む女性の姿を見たような気がした。
――わたしは何日も泣きじゃくったわ。そうすれば、いつかは涙も枯れるだろうと思ってた。そして、ある日の夜に夢を見たの。はるか遠くの過去と未来を旅する不思議な夢だった。目が覚めた時、わたしの心は決意に満ちていた。
 手に持っている本の絵が開いて、ひとりでに動き始める。来る日も来る日も、恋い焦がれたクッキーの味を求めて作り続ける少女の姿。集中して真剣な顔で作っている時、眠気でうとうとしている時、涙を浮かべて落ち込んだ顔をしている時もあった。
 めくるめくる時は流れ、少女は成長して女性へと変化していった。そして、最後に出来上がったクッキーを一枚手にとって、穴が空くほど見つめてから口へ運んだ。ゆっくりと口の中に広がる思い出を噛みしめ、瞳から一筋の涙が流れていった。それを荒れた指で拭い去れば、すっきりと晴れやかな笑顔で頬張った。


 それから、マリアの声を聞くことはなかった。
 何度か訪れて本を開いてみたけれど、ただクッキーの作り方が書かれているだけだった。
 寂しさや悲しみよりも、私の心にはクッキー作りへの情熱が宿っていた。自分の求めるクッキーを作り続けることを決め、日々、試行錯誤を繰り返した。それがどういうものか、はっきりと分かっていたわけではない。でも、やり遂げてみせると心に誓った。

 季節がいくつも流れて、気がつけば少女から大人に成長していた。
 専門学校を卒業後、知人の紹介を受けて焼き菓子専門のお店で働いている。有名な菓子職人の弟子が独立して開いたのだが、評判は上々でいくつかの店舗を構えている。私はそこでスタッフの一人として働きながら、クッキー作りの修行に励んでいた。素人の作るそれとは違い、繊細さを求められるプロの味と食感はとても勉強になった。
 忙しくも充実した毎日を送っていた。時折、あの本屋のことを思い出し、気がつくと足を運んでいることがあった。でも、中へ入ったことは一度もない。クッキーを完成させて、マリアへ報告しようと決めていたからだ。

 そして、働き始めてから数年後。数えきれないほどクッキーを作り続けて、ようやく求めていたクッキーが完成した。それを食べた時、やさしく微笑む美しい女性と晴々とした笑顔の少女が目に浮かんだ。私はひときしり涙した後、あの本屋へ駆け出していた。
 私が生まれるよりも前にある古い本屋。初めて目にした時よりもさらに年季が入って、周りが新しく生まれ変わる中、そこだけ世界が切り離されているような雰囲気であった。
 最後に入った時よりも、店の中は狭くて小さく思えた。たくさんの思い出に近づくように、本棚へと足を進める。さまざまな記憶が流れて、それらが一つに合わさったとき、本がある場所に立っていた。
 目線を下げて追いかける。
「えっ……うそ……」
 本は消えていた。
 上下左右に目を動かして探すも、やはり見当たらない。心はかき乱され、頭が真っ白になりかけた。
 その時、店番の方から話し声が聞こえてくる。
「これ、ありがとうございました」
「あら。見つかったの?」
「いいえ……これには載っていませんでした」
 そこには背の高い好青年が立っていて、眼鏡をかけた店番のおばさんと話をしていた。
「そうなの……残念だったわね」
「自費出版した本を見つけた時は、運命の導きすら感じました。万里亜叔母さんが作ってくれたクッキーを、また食べられるかもしれないと思ったら嬉しくて……」
 私は目を大きく見開いた。その手にあるのは、ハートのクッキーに囲まれる少女が描かれた本だった。
「ふふ。そんなに恋しい味だなんて、さぞかし素敵な方だったのね」
「本当に美味しかったんです。一口食べると、とても幸せな気持ちになれたんです」
 その味を思い出しているのか、瞼を閉じて静かに微笑んでいる。
 私の足はひとりでに動き出していた。一歩、一歩、花に誘われる蝶のように近づいていく。そして、彼が気配に気づいて振り向いた時、口から自然と言葉が紡がれていた。
「話は長くなるんですけど、聞いて頂けますか? マリアの恋したクッキーの物語を……」

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